独立して最初の案件で、秘密保持契約書に署名しました。A4で2枚。読んで、特におかしなところはないと思って返送した。
3年後、同じ業界の別の会社から声がかかったとき、私はその契約書を引っ張り出すことになりました。秘密情報の定義が「本契約に関連して開示された一切の情報」で、有効期間が「期間の定めなく」だったからです。
結局その案件は受けました。抵触しないと整理できたからです。ただ、**整理するのに半日かかった。**そして「たぶん大丈夫」と言い切れるまでの居心地の悪さは、はっきり覚えています。
秘密保持契約書(NDA)は、情報を守る契約です。同時に、受け取った側の動きを縛る契約でもある。複数の会社を回る独立の立場では、後者のほうが実害になります。
そもそも、契約がなくても守られる情報がある
先に前提を置きます。NDAを結ばなければ何を話しても自由、ではありません。
不正競争防止法は、第2条第6項で営業秘密をこう定義しています。
この法律において「営業秘密」とは、秘密として管理されている生産方法、販売方法その他の事業活動に有用な技術上又は営業上の情報であって、公然と知られていないものをいう。
3つの要件が並んでいます。**秘密管理性・有用性・非公知性。**この3つを満たす情報は、契約がなくても法律で保護されます。不正に取得したり、示された営業秘密を不正な目的で使ったり開示したりする行為は、同法2条1項の不正競争として差止めや損害賠償の対象になります。
では、NDAは何のためにあるのか。役割は2つです。
**1. 法律では守られない情報まで、契約で守らせる。**3要件を満たさない情報——たとえば「有用」とまではいえない社内の雰囲気や人事の噂話、あるいは公知になりかけの情報——も、契約でなら秘密の対象にできます。
2. 秘密管理性の証拠になる。「秘密として管理されている」という要件は、開示する側が満たさなければならないものです。NDAを結び、秘密である旨を明示して渡す、という運用そのものが、開示側にとって管理の証跡になります。
つまりNDAは、開示する側のための道具です。受け取る側にとっては、義務が一方的に増える契約書だと考えたほうが実態に合います。
署名前に必ず見る3か所
1か所目:秘密情報の定義
いちばん大事です。ここが広いと、後から全部が引っかかります。
危ないのは、冒頭に書いた**「本契約に関連して開示された一切の情報」**型です。これだと、打合せの雑談も、渡された会社案内も、街の看板で見えた情報も、理屈のうえでは秘密情報になります。何が秘密なのかを自分で判別できないので、判別できない=どこまで話していいかわからないという状態が続く。
望ましいのは、次のような限定です。
- 書面・電子データで開示する場合:「秘密」「Confidential」等の表示があるもの
- 口頭・視覚で開示する場合:開示時に秘密である旨を告げ、開示後30日以内に書面で内容を特定して通知したもの
口頭の扱いを決めていないNDAは意外と多い。後から「あれも秘密だった」と言われないために、期間と書面化をセットで置くのが実務です。
そのうえで、除外規定が入っているかを見ます。標準的には4つです。
- 開示を受けた時点ですでに保有していた情報
- 開示を受けた時点ですでに公知であった情報、または自らの責めによらず公知になった情報
- 正当な権限を持つ第三者から秘密保持義務を負わずに適法に取得した情報
- 開示された秘密情報によらず独自に開発した情報
4つめが、独立して同じ領域で複数社を回る人にとって決定的です。これがないと、自分がもともと持っていた知見で作った成果物まで、相手の秘密情報だと主張される余地が残る。
さらに、法令や裁判所の命令で開示を求められた場合の例外(開示前に相手方へ通知する、という条件付きのもの)も、入っていれば安心です。
2か所目:目的(Purpose)
「秘密情報を、本目的以外に使用してはならない」という条項があるので、目的の書き方がそのまま使える範囲になります。
ここは狭すぎても広すぎても困ります。
狭すぎる例:「A社の2026年度会計システム更改の要件定義」。この書き方だと、同じ案件の後工程(設計・テスト)に入るときに、目的の外になりかねません。追加のNDAを巻き直すことになる。
適度な例:「A社が委託する業務の遂行および当該業務に関する提案・見積の作成」。案件が伸びても、提案段階に戻っても、同じ紙で足ります。
私は契約前の提案・見積の段階を目的に含めてもらうようにしています。NDAは商談の入口で結ぶことが多いので、そもそも受注前の検討にすら使えない文言になっていることがあるからです。
3か所目:有効期間と、契約終了後の残存
3つの数字を分けて見ます。
| 何の期間か | ありがちな書き方 | 見るポイント |
|---|---|---|
| NDA自体の有効期間 | 締結日から1年(自動更新) | 更新の有無 |
| 秘密保持義務の存続期間 | 契約終了後3年/5年/無期限 | ここが本丸 |
| 開示できる期間 | 本件業務の期間中 | 実態と合っているか |
問題になるのは真ん中です。契約終了後も無期限、という書き方をよく見ます。
理屈のうえでは、無期限だと自分が死ぬまで管理義務が続くことになります。10年後に「あの案件で聞いた話だったかどうか」を証明する手立てはありません。管理できない約束は、守れているかどうかを自分で確認できない約束です。
現実的な着地は契約終了後3〜5年でしょう。ここを直したいときの言い方は、削除の要求ではなく代案の提示です。「情報の陳腐化を考えると5年で十分と考えます。営業秘密に当たる情報は不正競争防止法で別途保護されますので、御社の保護が薄くなるものではありません」。
最後の一文が効きます。**NDAの期間が切れても、営業秘密に当たる情報は不競法で守られたままだからです。**無期限の条項は、法律で守られている部分を契約で二重に書いているだけ、という場合が少なくない。
もう2つ、紛れ込むもの
競業避止・勧誘禁止の条項
秘密保持契約書という題名の中に、**「本契約期間中および終了後1年間、乙は甲と競合する事業を行ってはならない」**という一文が入っていることがあります。
これはもう秘密保持の話ではありません。仕事を受けられる範囲を制限する条項です。独立して同じ領域で食べている以上、ここに署名すると生活に直結します。
見つけたら、まず削除を求めます。それが通らないなら、範囲を具体的に絞る。「甲の顧客であるX社に対する同種の役務提供」のように、対象・地域・期間を全部限定した形にする。競業避止義務がどこまで有効かは別の論点ですが、有効かどうかを裁判で争う立場に自分を置かないのがいちばん安いやり方です。
同じ場所に**勧誘禁止(Non-solicitation)**が入ることもあります。「甲の従業員を勧誘してはならない」。これ自体は通常受け入れられる範囲ですが、「甲の顧客に対して営業してはならない」まで広がっていたら、事実上の競業避止です。
返還・破棄条項
「契約終了時、秘密情報を含む一切の資料を返還または破棄し、破棄したことを証明する書面を提出する」。
紙とファイルだけなら問題ありません。困るのはメールとクラウドのバックアップです。送受信したメールを完全に消せるか、バックアップから復元不能にできるか。厳密にやるなら業務のやり方そのものを変える必要があります。
現実的な文言は「合理的な範囲で返還または破棄する。ただし、法令上の保存義務があるもの、および自動的なバックアップに含まれるもので通常の業務では復元されないものはこの限りでない」。ここは相手も同じ問題を抱えているので、たいてい通ります。
なお、電子帳簿保存法で7年保存が必要な取引の記録は、当然に残ります。「一切」と書かれた条項と保存義務がぶつからないよう、例外の一文は入れておいたほうがいい。
前職の秘密保持義務を抱えたまま独立する
独立を準備している会社員から、いちばんよく聞かれるのがこれです。
**持ち出せるのは、一般的な知識・技能まで。**具体的にはこういう線になります。
| 持っていけるもの | 持っていけないもの |
|---|---|
| 業務を通じて身につけた手順の理解・判断の型 | 会社が作った資料・テンプレート・ソースコードそのもの |
| 業界の一般的な相場観 | 顧客リスト・単価表・原価表 |
| 「この工程は詰まりやすい」という経験知 | 特定の顧客の内部事情 |
| 公開されている実績(プレスリリース等) | 未公表のプロジェクト名・体制図 |
判断に迷ったときの問いはひとつです。**「これは、私が別の会社にいても同じように身につけられたものか」。**イエスなら一般的な知識・技能に寄る。ノーなら、その会社の情報です。
とくに危ないのがファイルの持ち出しです。「自分が作ったのだから」という感覚がありますが、職務として作成したものは会社に帰属するのが通常で、著作権の扱いも同様です。実務では、退職時にファイルを一切持ち出さないほうが安全です。持ち出さなくても、頭の中の型は残ります。
実績の書き方も同じ線で決まります。私は提案資料に、社名ではなく「製造業・連結売上◯千億円規模の会計システム更改でFI領域のリードを担当」という粒度で書いています。相手が誰かは特定できないが、規模と役割は伝わる。独立の準備で先にやっておくべきことのひとつです。
実務でよく聞かれること
**一方向か、双方向か。**受注側だけが義務を負う一方向のNDAが一般的ですが、こちらの手法・チェックリスト・見積の考え方を開示することもあります。相手が資本のある会社なら、**双方向にしてくださいと言って断られたことはあまりありません。**言わなければ一方向のまま進むだけです。
**収入印紙は要るか。**秘密保持契約書は、通常は印紙税法上の課税文書に当たりません。判断は文書の中身によるので、業務委託契約書の印紙と同じ考え方で見ます。
損害賠償の上限。「本契約に違反した場合、乙は甲に生じた一切の損害を賠償する」だけだと、青天井です。業務委託契約書のチェックと同じく、上限(報酬額を基準にするなど)と、間接損害・逸失利益の除外を入れられないか交渉します。ここは秘密保持の性質上、通らないことも多い。通らないなら、その前提で賠償責任保険を見ておくことになります。
**署名を求められたが案件になるかわからない。**NDAだけ先に結ぶのは普通のことです。ただし、目的条項に提案・検討の段階を含めておく(2か所目の話)。含まれていないと、そのNDAは商談で使えません。
私が実際にやっている運用
**1. NDAの一覧をスプレッドシートで持つ。**相手先・締結日・目的・秘密保持義務の存続期間・競業条項の有無。5行の表です。冒頭の「半日かけて整理した」経験のあと作りました。新しい案件の打診が来たとき、5分で抵触の有無を確認できるようになります。
**2. 自分のひな形を1本持つ。**先方の様式で来ることがほとんどですが、こちらから出す場面(自分が委託する側になるとき、双方向にするとき)は必ずあります。ゼロから作らずに済むだけで、返事が1日早くなる。
**3. 直す箇所は3つまでに絞る。**全部指摘すると、こちらが面倒な相手になります。秘密情報の定義(除外規定4つ)・存続期間・競業条項の有無。この3つに絞って、残りは飲む。通す確率を上げるのは、指摘の正しさより本数です。
まとめ
- NDAは情報を守る契約であると同時に、受け取る側の動きを縛る契約。複数社を回る独立の立場では、後者が実害になる。
- 契約がなくても、不正競争防止法2条6項の営業秘密(秘密として管理/事業活動に有用/公然と知られていない、の3要件)は保護される。NDAの役割は、法律で守られない情報まで契約で守らせることと、秘密管理性の証跡を作ること。開示する側のための道具である。
- 署名前に見る3か所。①秘密情報の定義(「一切の情報」型は危険。口頭開示は30日以内の書面化、除外規定4つ=既知・公知・第三者から適法取得・独自開発が入っているか)②目的(提案・見積の段階を含める)③存続期間(契約終了後3〜5年。無期限は管理できない約束)。
- 紛れ込むものが2つ。競業避止・勧誘禁止は秘密保持の話ではないので、削除か、対象・地域・期間の限定を求める。返還・破棄条項は「合理的な範囲で」とバックアップの例外を入れる。
- 前職から持っていけるのは一般的な知識・技能まで。資料・テンプレート・顧客リスト・単価表は持ち出さない。判断の問いは「別の会社にいても同じように身につけられたか」。
- 実績は社名ではなく規模と役割の粒度で書く。それで伝わる。
契約書は、もめたときにしか読まれません。だからこそ、**もめていないときに3か所だけ直しておく。**半日かけて過去のNDAを読み返した日から、私はそうしています。契約の効力は個別の文言と事情で変わるので、金額の大きい案件や踏み込んだ条項は弁護士に確認してください。
参考:不正競争防止法第2条第6項・第2条第1項第4号〜第10号(e-Gov法令検索)/経済産業省「営業秘密」関連資料