独立の準備は、たいてい静かに進みます。生活費を計算し、1本目の案件のあたりをつけ、手続きの期限を調べる。ここまでは、ひとりでできます。
ところが最後に、ひとりでは終わらない工程が一つだけ残ります。会社に伝えることです。
そして伝えた瞬間、それまで一度も出てこなかった話が出てきます。処遇の見直し、ポストの提示、時期の再考、そして「このタイミングで抜けられると困る」。準備を全部そろえた人が、ここで止まります。
この記事は、その場面だけを扱います。辞める時期の判断は独立するタイミングに、何が揃えば踏み出せるかは独立は何が揃えば踏み出せるのかに、準備の順番は独立準備は何からに、それぞれ分けて書きました。ここでは伝えたあとの交渉の話だけをします。
なお、在職中の顧客や部下に声をかける話は、この記事では扱いません。契約と法の問題になるので競業避止義務と秘密保持契約(NDA)に譲ります。
引き止めは、あなたの独立の理由を試してくる
引き止められて揺れるかどうかは、人柄でも意志の強さでも決まりません。独立の理由が、いまの会社で解ける種類のものかどうかでほぼ決まります。
理由が「評価が納得できない」「この案件はやりたくない」「この上司の下ではやれない」だったとき、会社は解けるカードを持っています。等級を上げる、アサインを変える、レポートラインを変える。差し出された瞬間、独立の理由そのものが消えます。
理由が「決める側に立ちたい」「誰の名前で仕事をするかを自分で決めたい」「働く量と受ける仕事を自分で選びたい」だったとき、会社はカードを持っていません。組織にいる限り、最終的に決めるのは組織だからです。ここは処遇では埋まりません。
引き止めで揺れたなら、それは意志が弱いのではなく、独立の理由が会社の中で解ける種類だったということです。揺れたこと自体が、判断材料になります。
だから伝える前に、一度だけ紙に書いてみてください。「これが直れば、辞めなくていいか」。 直れば辞めなくていいものが一つでもあるなら、独立より先に、社内でそれを交渉する道があります。それは負けではありません。順番の問題です。
実際に出てくるカードは、4種類しかない
引き止めの中身は、会社の規模や業種が変わっても、だいたい4つに収まります。順番に見ます。
カード1|条件(報酬・等級・処遇)
いちばん最初に出てくるカードです。次の評価で上げる、特別に見直す、といった形で来ます。
受けてよい場合:独立の理由が金額そのもので、かつ提示が口頭でなく、時期と金額と根拠まで具体的なとき。次の改定でどうなるかが、月と数字で言えるかどうかが分かれ目です。
受けてはいけない場合:時期も金額も曖昧なとき。「必ず報いる」「悪いようにはしない」は、条件ではなく気持ちの表明です。ここで残ると、半年後に同じ話をもう一度することになります。しかも二度目は、一度撤回した人という立場から始まります。
金額を比べるなら、会社員の給与と独立後の報酬は同じ土俵に載りません。社会保険の会社負担、有給、通勤費、退職金の積み上がりが全部違います。手取りベースの比べ方はフリーランスの手取りはいくらかに書きました。額面だけを並べて比べると、たいてい判断を間違えます。
カード2|役割(案件・ポスト・裁量)
次に出てくるのが役割です。次の大型案件のリード、マネージャー登用、新しい組織の立ち上げ。
受けてよい場合:その役割が、独立したあとに売り物になる経験であるとき。要件を決めた、体制を組んだ、社外と論点を詰め切った──こういう経験は、辞めたあとも値段がつきます。何が売り物になるかは辞める前に社内で取っておく実績に整理しました。1年遅らせて、その1年で持ち駒が増えるなら、遅らせる価値はあります。
受けてはいけない場合:役割の中身が「いまの穴を埋めること」だったとき。引き継ぎ相手がいない、代わりがいない、この案件が終わるまで。これは会社の都合であって、あなたの持ち駒にはなりません。
見分け方は一つです。「その役割で、自分は何を決められますか」と聞くこと。 決めることが具体的に返ってくるなら役割です。返ってこないなら穴埋めです。
カード3|時期(あと半年、あと1年)
三つ目は、独立そのものは否定せず、時期だけを動かそうとするカードです。「独立するなというつもりはない。ただ、この案件が終わるまで」。
これがいちばん危ないカードです。否定されていないので、断る理由を作りにくい。
受けてよい場合:延ばした先に終わりの日が決まっているとき。案件の終了月が契約書で確定していて、そのあとに退職日を置けるなら、延ばす判断はあり得ます。とくに、1本目の案件の開始月がまだ固まっていないなら、時間は味方になります。
受けてはいけない場合:終わりが「落ち着いたら」「めどが立ったら」で表現されているとき。プロジェクトは、落ち着いたころに次が始まります。私が見てきた範囲では、「めどが立ったら」で延ばした人が、その年のうちに辞められた例はほとんどありません。
延ばすなら、延ばした日付を先に決める。決められないなら、それは延期ではなく撤回です。
カード4|関係(人・恩・迷惑)
最後に出てくるのが、条件でも役割でもないカードです。育ててもらった、このタイミングで抜けられると迷惑がかかる、チームがもたない。
正直に書きます。**このカードは、いちばん効きます。**そして、いちばん判断を鈍らせます。
ここで持っておくとよい線が一つあります。恩は仕事の質で返すもので、在籍期間で返すものではない、という線です。引き継ぎを丁寧にやる、途中で投げない、最後まで品質を落とさない。返し方はそこにあります。在籍を延ばすことで返そうとすると、延ばした期間ぶんだけ、次に抜けるときの重さが増えます。
そして、これも事実として書いておきます。**抜けた穴は埋まります。**私が抜けたあとのプロジェクトも回りました。会社は個人の不在で止まらないようにできています。それは冷たい話ではなく、そう設計されているというだけの話です。
唯一、受けてよい引き止めがある
ここまで「受けない」側の話が多くなりましたが、受けてよい引き止めが1種類だけあります。
**「辞めたあと、業務委託で手伝ってくれないか」**という提案です。
これは引き止めの形をしていますが、中身は最初の案件の打診です。独立直後にいちばん欲しいのは、稼働と入金の見えている1本目です。仕事ぶりを知っている相手から来るこの話は、条件さえ整えば、断る理由がありません。
ただし、その場で受けないでください。先に決めることが3つあります。
- 稼働と金額。週何日か、月いくらか。ここを曖昧にしたまま始めると、社員のときの働き方がそのまま持ち込まれます。日数の考え方は業務委託の稼働日数に書きました
- 期間と、更新の決め方。いつまでの契約で、更新はいつ誰が判断するのか。契約が切れる場面の実務は業務委託が更新されなかったときにあります
- 契約書を、社員のときの感覚で読まないこと。指揮命令、成果物の範囲、秘密保持、競業。見る順番は業務委託契約書の作り方にまとめました
そしてもう一つ。**元の会社1社だけで独立を始めない。**入金は安定しますが、その1社が止まった瞬間に収入がゼロになります。同時に2本目を探す動きは、稼働が始まる前から始めておくほうがいい。案件の入口の作り方は独立コンサルの案件の取り方に書きました。
伝える前に、決めておく2つ
引き止めに強い人は、口が上手いわけではありません。伝える前に決めていることが2つあるだけです。
1つ目|退職日。「そろそろ考えている」ではなく「◯月◯日で退職したい」と言えるかどうかで、会話の性質が変わります。前者は相談なので、相手は説得を始めます。後者は報告なので、話は引き継ぎに移ります。
**2つ目|受けない線。**何を出されても受けない、と先に決めておく項目です。私の場合はここが「決める側に立つ」の一点でした。処遇が上がっても組織の中で決裁を仰ぐ立場は変わらないので、条件のカードは最初から判断の外に置けました。
この2つを決めずに伝えると、その場で考えることになります。**その場で考えると、相手のほうが準備しています。**引き止めをする側は何度も経験していて、こちらは基本的に一度きりです。
退職日までの3か月を、どう使うか
独立準備の側では、退職の3か月前に1本目の案件の開始月・稼働・金額を決めておく、という順番で並べました(独立は何が揃えば踏み出せるのか)。伝える場面を、その時間軸に重ねるとこうなります。
| 時期 | やること | 判断のポイント |
|---|---|---|
| 伝える前 | 退職日と「受けない線」を決める | 決めずに伝えると、その場で考えることになる |
| 伝える前 | 1本目の案件の開始月・稼働・金額を固める | ここが空だと、時期のカードに勝てない |
| 伝えた直後の2週間 | 引き止めのカードが出そろう。即答しない | 「持ち帰って考えます」で足ります |
| 退職2か月前 | 引き継ぎの相手と範囲を確定する | 恩は、ここで返す |
| 退職1か月前 | 在職中にしか取れない手続きを進める | 任意継続の試算、必要現金の計算 |
| 退職日 | 離職票・源泉徴収票の受領、保険証の返却 | 期限は退職日を起点に走り出す |
期限のある手続きは、伝える場面とは別に走ります。健康保険の任意継続は資格喪失日から20日以内、国民年金の切替は退職日の翌日から14日以内。**引き止めの交渉に気を取られている間に、この期限が近づいてきます。**手続きの一覧は独立は何が揃えば踏み出せるのかに、書類の書き方は開業届の書き方にまとめました。
言わないほうがよかったこと
引き止めの場で、言うと自分の首を絞める話が3つあります。
**1|独立後の案件の中身。**どこの会社と何を話しているか。守秘の問題になる場合があり、相手が同じ業界なら競合の話にもなります。「決まっている案件があります」で足ります。
**2|会社への不満の一覧。**不満を並べると、それは解けるカードのリストになります。相手は当然そこから潰しにきます。伝えるべきなのは不満ではなく、自分が次に何をやるかです。
**3|迷っていること。**迷いを見せると、会話は説得に戻ります。決めきれていないなら、決めきってから伝える。伝える日をずらすのは、まったく問題ありません。
逆に、はっきり言っておいたほうがよいことが一つあります。**「もし外から手伝えることがあれば、声をかけてください」。**この一言が、独立後の入口になることがあります。実際、独立してからの案件の入口をたどると、依頼をくれたのはほぼ全員、過去に同じプロジェクトで一緒に働いた人でした。交流会で名刺を交換した相手から依頼が来た記憶はありません。
法律の話は、ここだけ
期間の定めのない雇用契約について、民法にはこう書かれています。
当事者が雇用の期間を定めなかったときは、各当事者は、いつでも解約の申入れをすることができる。この場合において、雇用は、解約の申入れの日から二週間を経過することによって終了する。
── 民法第627条第1項
一方で、就業規則には「退職の1か月前までに申し出ること」といった定めが置かれていることが多くあります。この2つの関係については見解が分かれており、当社の理解では、実務上は就業規則の定めに沿って進めるのが穏当です。法律を持ち出して短く切り上げることが目的の場面は、独立にはほとんどありません。辞めたあとに仕事をくれる可能性がある相手と、最後に揉める意味がないからです。
個別のケースで期間の可否が争点になる場合は、条文の解釈が必要になります。ここは専門家にご確認ください。
それでも決めきれないとき
最後に、決めきれないまま伝える日が近づいている人へ。
**判断を分けるのは、条件の比較ではありません。**提示された条件と独立後の見込みを並べて比べても、たいてい答えは出ません。片方は確定していて、片方は見込みだからです。確定と見込みを比べれば、確定が勝ちます。
比べるべきなのは、こちらです。その提示を受けて残った1年後、自分は同じ話をもう一度することになるか。
もう一度することになると思うなら、答えは出ています。ならないと思うなら、残る判断は正しい。独立は目的ではなく、やりたい形に近づくための手段です。手段は、他にもあります。
後悔の中身については独立して後悔する人としない人に、向き不向きはフリーランスに向いてる人に分けて書きました。
まとめ
- 引き止めで揺れるかどうかは意志の強さではなく、独立の理由が会社の中で解ける種類かで決まる。伝える前に「これが直れば辞めなくていいか」を一度書き出す
- 出てくるカードは4種類。条件・役割・時期・関係。条件は時期と金額が具体的でなければ受けない。役割は「そこで何を決められるか」で穴埋めと見分ける
- いちばん危ないのは時期のカード。「落ち着いたら」で延ばすと、落ち着いたころに次が始まる。延ばすなら日付を先に決める
- 恩は在籍期間ではなく、引き継ぎの質で返す
- 受けてよい引き止めは1つだけ。退職後の業務委託の提案。ただし稼働・金額・期間・更新の決め方を先に決め、その1社だけで始めない
- 伝える前に決めておくのは2つ。退職日と、何を出されても受けない線。決めずに伝えると、準備している側と、その場で考える側の勝負になる
- 言わないのは、独立後の案件の中身・不満の一覧・迷っていること。言っておくのは「外から手伝えることがあれば声をかけてください」の一言
伝える場面は、独立の工程のなかで唯一、相手のいる交渉です。だから準備の仕方も他とは違います。そろえるのは資料ではなく、決めておく2つだけです。
いま自分がどのあたりにいるかを整理しておきたい方は、30秒の独立準備度チェックから入ってみてください。登録は要りません。
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※本記事は独立の実務経験にもとづく整理であり、法的助言ではありません。民法第627条第1項の条文は e-Gov 法令検索(電子政府の総合窓口)に掲載されている条文によります。就業規則の定めとの関係や個別の可否については、専門家にご確認ください。