「浅香さん、うちの社員になりませんか」
業務委託で客先に入っていると、この話は思ったより普通に来ます。半年から1年、同じ現場にいて、業務を回せることが伝わったあとが多い。言われる側にとっては、悪い話ではありません。評価されているから出てくる打診です。
ただ、この一言は受けるか断るかの二択に見えて、実際にはそうではありません。返事の順番を間違えると、受けるにしても断るにしても、条件を詰める余地が先に消えます。
私自身、独立してから両方の側を見てきました。声をかけられる側としても、いまは自社で人を採る側としても。その両方から見て言えるのは、この打診で損をする人は、条件が悪かったのではなく、確認する順番を飛ばしているということです。
この記事は、受けるべきか断るべきかを決める記事ではありません。返事をする前に確認する4つを、順番に並べます。
この一言には、3つの別々の話が混ざっている
まず、打診をほどきます。「社員にならないか」の中には、性質の違う3つが同居しています。
- 誰が言っているのか(現場の担当者の願望なのか、人を採る権限がある人の意思なのか)
- 何の身分の話なのか(正社員か、有期の契約社員か、嘱託か。全部「社員」と呼ばれます)
- いつからの話なのか(いまの案件が終わってからか、契約を途中で切り替えるのか)
この3つは、聞けば分かります。そして聞かないまま「ありがとうございます、考えます」と答えると、相手の中では話が一段進みます。最初の返事は、感謝と、この3点の確認までで止めるのが安全です。
確認1|いま自分が、誰と何の契約を結んでいるか
いちばん先に見るのは、相手の条件ではなく自分の契約書です。
独立して常駐している形は、大きく2つに分かれます。
- 直接契約:自分(または自分の会社)と、常駐先が直接結んでいる
- 間に会社が入る形:常駐先と契約しているのは別の会社で、自分はその会社と契約している
後者の場合、契約書のどこかに直接雇用や直接取引を制限する条項が入っていることがあります。名前は会社によって違い、「直接取引の禁止」「勧誘の禁止」「取引先の従業員等の引き抜き禁止」といった見出しで置かれています。期間が切られていることも多く、契約終了後6か月や1年といった書き方をよく見ます。
ここで大事なのは、その条項が有効かどうかを自分で判定しないことです。この種の条項は、範囲や期間によって効き方が変わり、争いになる領域でもあります。個別の条項が最終的にどこまで及ぶかは、契約書の文言と事実関係を見た専門家の領分です。
自分でやるのは、判定ではなく確認です。見るのは3点だけ。
| 見るところ | 何を確かめるか |
|---|---|
| 条項の有無 | 直接雇用・直接取引・勧誘に関する条項が入っているか |
| 誰の義務か | 自分に課された義務か、常駐先に課された義務か、双方か |
| 期間 | 契約中だけか、終了後も一定期間続く書き方か |
そして、条項があるなら、自分から先に契約相手へ一報を入れる。黙って話を進めて後で発覚すると、契約違反の話になり、いま受け取っている報酬まで止まりかねません。順番として、常駐先に「先方(契約相手)に確認します」と言うほうが、結果的に自分を守ります。
会社を辞めるときの競業避止義務と、この話は別物です。混ざりやすいので、そちらは前職と同じ領域で独立してよいかに分けて書きました。
確認2|「社員」が、具体的に何を指しているか
次に相手側です。「社員」という言葉は、実務では最低4つのものを指します。
- 期間の定めのない雇用(いわゆる正社員)
- 有期の契約社員(1年更新など)
- 嘱託、シニア契約などの個別枠
- 出向・転籍を含む、グループ内の別会社への所属
「まずは契約社員で1年、様子を見て正社員に」という形は珍しくありません。これは悪意ではなく、採る側の稟議が通しやすいからです。ただし受ける側から見ると、いまの業務委託より不安定になる期間が生まれることがあります。業務委託は中途解約の予告期間が契約で決まっていますが、有期雇用は期間満了という終わり方を持っています。
確認するのは、次の5点です。
- 雇用の形と、期間の定めの有無
- 試用期間があるか、その間の条件は何か
- 就業場所(いま座っている現場に、そのまま居続けるとは限りません)
- 職務の範囲(いまやっている仕事だけとは限りません)
- 評価と昇給の仕組み(次に金額が動くのはいつか)
3つ目と4つ目は、意外に落とし穴です。**業務委託で入っているときの仕事は、契約書の業務範囲で守られています。**雇用に変わった瞬間、その線は消えます。同じ席に座っていても、翌月から別のプロジェクトに動く可能性がある。それが雇用という契約の性質です。
契約の型そのものが何を決めているかは、業務委託でコンサルを受けるとき、何が変わるかにまとめてあります。
確認3|金額は、年額ではなく「手取りと固定費」で並べ替える
ここがいちばん間違えやすいところです。
業務委託の月額と、雇用の年収を、そのまま比べてはいけません。同じ額面でも、手元に残る金額と、そこから出ていく固定費が違います。
| 比べる軸 | 業務委託 | 雇用 |
|---|---|---|
| 提示される金額 | 月額(消費税を含むか別かで見え方が変わる) | 年額(賞与を含むかで幅が出る) |
| 社会保険料 | 国民健康保険・国民年金を全額自分で | 労使折半。厚生年金と健康保険 |
| 経費 | 事業に必要なものは必要経費にできる | 原則できない |
| 収入が止まる条件 | 契約終了。予告期間の定めによる | 雇用契約の定めによる |
| 金額の上限 | 案件と役割で動く | 等級と評価の仕組みの中で動く |
| 稼働の谷 | 自分で埋める必要がある | 会社側が抱える |
比べるときは、額面ではなく、次の3つを紙に書き出すのが早い。
- 手取り(税と社会保険料を引いたあと)
- いま経費で落ちているもののうち、落ちなくなるもの(通信費、書籍、自宅の按分など)
- 消える不安と、消える上限(谷を埋める手間がなくなる代わりに、単価を自分で動かす余地がなくなる)
3つ目は数字になりません。でも、実際に効きます。厚生年金や労使折半の効き方はフリーランスの社会保険に分けて書きました。金額を動かす余地の話は単価交渉の切り出し方にあります。
**そして、雇用の条件は交渉できます。**業務委託の単価は交渉するのに、雇用の提示額は言い値で受ける人がとても多い。入社後に等級の中に入ってしまうと、そこから動かすには評価の周期を待つことになります。動かすなら入る前です。
確認4|断ったとき、いまの稼働は続くのか
最後に、断る側の想定です。
現実には、断ることでいまの契約が終わる場合があります。悪意ではなく、常駐先が「長く一緒にやるなら雇用で」という方針を持っていて、そこに合わないという整理になるだけです。
だから確認するのは、この2点です。
- 断った場合、いまの業務委託契約は更新されるのか
- その返事をしているのは、決める権限がある人か
現場の担当者が善意で言っているだけで、社内の稟議はこれからということもあります。その段階で自分の稼働の予定を組み替えると、両方を落とします。
もし更新されない可能性があるなら、返事をする前に、次の稼働を並行して探し始めるのが順番です。案件が終わる前に動いておく話は案件が終わる1か月前にやることに、更新されないと分かった月の動き方は更新されないと分かったときに書きました。
受ける・断るのほかに、3つ目の返し方がある
二択で答えないといけない場面のように見えますが、そうではありません。期限を切って保留するという返し方があります。
やることは3つです。
- 感謝を先に言う(評価されたから出てきた話であることは事実です)
- いつまでに返事をするかを、自分から言う(2週間、月末、など具体的に)
- 何を見て決めるかを言う(契約の確認、条件の書面、家族との相談。理由は正直でいい)
期限を自分から出すと、相手も社内で動けます。曖昧に「考えます」で置くのがいちばん悪い。相手の中で話が進み、断りづらくなり、条件を詰める余地だけが消えていきます。
そして保留の間、稼働は止めないでください。返事待ちの期間は、たいてい想定より延びます。
越えないでおく線がひとつある
打診を受けたあと、雇用の話をしながら業務委託のまま常駐を続ける期間が生まれます。ここで、指揮命令の受け方が雇用に近づいていくことがあります。
契約が業務委託である以上、その期間の働き方も業務委託のままです。話が進んでいることと、いまの契約が変わったことは別です。この線の引き方は偽装請負とはに書いてあります。
まとめ
- 「社員にならないか」には、誰が言っているか・何の身分か・いつからかの3つが混ざっている。最初の返事はこの確認までで止める
- 確認1は相手の条件ではなく自分の契約書。直接雇用や勧誘に関する条項の有無・誰の義務か・期間の3点を見る。有効性は自分で判定しない。間に会社が入っているなら、先に一報を入れる
- 確認2は「社員」の中身。期間の定め・試用期間・就業場所・職務範囲・評価の仕組みの5点。業務範囲の線は、雇用に変わると消える
- 確認3は金額。年額ではなく手取りと固定費で並べ替える。そして雇用の提示額も交渉できる。動かすなら入る前
- 確認4は断ったときの想定。更新されるのかと、決裁権のある人の話かを確かめる。危ういなら、返事の前に次を探し始める
- 受ける・断る以外に、期限を切って保留するという返し方がある。曖昧な「考えます」がいちばん悪い
戻る側の判断材料としては、採る側から見た独立経験者の評価を独立したあと、会社員に戻れるかにまとめてあります。打診をきっかけに、独立を続ける形のほうを整理したくなった方は、30秒の無料診断で自分の現在地を言葉にしてから決めてください。
※本記事は2026年9月時点の一般的な整理です。契約条項の効力や個別の労働条件の当否は、契約書の文言と事実関係によって変わります。実際の判断は、契約書を確認したうえで弁護士・社会保険労務士にご相談ください。